2001年3月の記録

3/31(土) 米と麦が全部なくなった。3月1ヶ月だけで七キロ穀物を食べたことになる。(あと若干のそば・うどん・冷や麦)しかし、おかずを全然食べなかったので、3月の初め体重が74キロあったのが70キロにまで落ちた。また、動きが鈍くなり、ややこしいことを考えることができなくなった。感情が激しやすくなった。やはりちゃんとしたものを食べなければ健康には悪いようだ。戦前の日本人ならさらに腹の中に虫がいたわけで、このあたりに昔戦争しまくった原因があるんじゃないだろうか。夕方から中井武田と飲んだり食ったり突いたり歌ったりまた飲んだり食ったりする。最近米しか食べていなかったので、肉や酒がとてもうまい。中井は4月から東京に転勤だそうだ。
 実家に帰ったら12時だった。アイテックの模試の答案と簿記の合格証書が届いていた。模試は「足きり点に達していません」だと。やはり問題は午後2のようだ。
3/30(金) (日時あいまい)勇者ハヤマの娘レイコは貴婦人になった。料理コンクール・ミスコン・絵画コンクールで優勝した。勇者ヒダカの娘ノリコは、今度こそ肉弾系に育てようと思っていたがリョウコと同じようになってきたので、やめてまたやり直そうと思っている。「因業」が999になると警察に捕まって0に戻ることを発見した。
 ステッピングモータの回路製作が進むが、なんだかよく分からない。はやくCPUの実験をして、信号をモータ回路に送ってみて回るかどうか確かめないといけないが・・・とにかく分からないことが多すぎる。もっとも去年の絶望的な状況を考えれば大分ましではあるが。
3/29(木) (日時あいまい)勇者ヒロスエの娘リョウコは真面目な肉弾戦士に育てたかったんだが、魔導師になってしまった。武道大会と絵画コンクールで優勝した。
3/28(水) このころ「プリンセスメーカー」(SFC版)を始める。面白い。
 たまっていたトランジスターの本とかを読む。エンべデッドシステムの午前問題を終わらせる。共通問題はほぼ問題ないが、エンべデッドシステムならではの問題が知らない話ばっかりでできない。
3/27(火) 駅前校で履修登録確定、教科書購入。結局時間割は
月 数値解析 電子回路3 情報理論 計算機アーキテクチャ
火 データ構造論 データ通信 電気電子実験1 電気電子実験1
水 (なし) 自動制御1 OS1 OS1
木 (なし) (なし) (なし) 基礎情報活用3
金 (なし) (なし) C言語3 C言語3
となった。木曜の朝が空いているので、どこかに潜らせてもらおうと思って交渉中である。
3/26(月) 部室の整備。
3/25(日) 抵抗を買いにいったりした。
3/24(土) オセロの段位ってどうやって取るんだろうか、と思っていろいろ調べていたら面白いことがわかった。オセロ(シェイクスピアの「オセロー」から取ったらしい)は1945年に日本人が発明したことになっているが、実はほとんど同じゲームが19世紀のイギリスにあった。名前は「リバーシ」という。「オセロ」はツクダオリジナルの登録商標らしい。インターネット上のオセロゲームをさがしてもほとんどなく、みんな「リバーシ」だった。オセロ連盟のホームページの様子が変なので調べてみると、どうやらオセロ連盟には「急進的反リバーシ派」とでもいうべき人たちがいて、その偏狭な態度を嫌がった人たちが連盟をやめてリバーシ協会にはいったり、いろいろ政治的な内紛があったらしい。ただあのゲームが好きなだけの人にとっては本当にどうでもいい話である。昔「全柔連」と「学柔連」の内ゲバがあったが、そんなものだろうか。こんなめんどくさそうな組織なら別に入らなくてもいいか、という気がしてきたので、段位を取るのは諦めようと思う。
 藤子不二夫は(日本以外の)アジア各国でドラえもんの海賊版が出回っているのを放っておいたが、おかげで今アジアの漫画文化はすっかり日本の色に染まってしまった。経済的には成功していないが、文化侵略には成功したことになる。リバーシを流行らせてオセロ連盟に段を取りに来させれば儲かると思うんだがどうか。ま、会のことは会員が決めることで、私がとやかく言うことではないが。
3/23(金) 洛北校の隣のビルの2階から3階にPCを移動し、B教室から日本語センターまでPCを移動する作業の手伝い。私以外で初めから来ていたのは渕野・倉岡の二人だけだった。部長と中西氏が遅れてきた。昼から田中・越山の両氏。前田氏が来てこたつ布団をくれたので、非常に快適になった。PCにWindowsやオフィスなどをインストールする。夕方部長の友人のJという人が来た。ポスターについて皆で議論するが、話はまとまらなかった。そもそもこのクラブは何のクラブなのか、説明できないのだ。(私個人としては、ホームページの内容を増やしてポスターは作らない、というのがいいんじゃないかと思う。)J氏はポスターを作ってくれという部長の依頼を受けて来ていたらしく、意見がまとまらないのを見て大変怒っていた(それはそうだろう)。J氏のいうことはもっともなことも多かったが、突然来たよその学校の人間に部の方針について云々されるのは非常に不愉快だった。

 CINCSは1999年に旗揚げしたわけだが、再初期からのメンバは事実上絶滅し、現在残っているメンバは最近入った者ばかりである。(つまりCINCSは一旦滅んだのである・・・部長はそうは思っていないようだが、これは事実である。信じようと信じまいと)2000年度の入退室ノートを見ると、最盛期は一日に10人以上が出入りしていた時期もあったが、そのほとんどが根付かずにいなくなってしまった。特に1回生は私以外事実上一人も残らなかった。なぜあんなにたくさんいた部員が全然根付かなかったか?CINCSは出入り自由な組織である。足ぬけしたらひどい目にあう、会社やスパイ組織とは違う。そうすると原因は一つしかない。部に魅力がなかったからだ。(呼んでるのにだれも来ん。みんなええ加減なやつばっかりや。仕事を全部自分に押し付けてきやがって、たまらんわ。と、部長が考えているとしたら、それは間違いであり、自惚れも大概にせえといいたい。部に顔は出すけど仕事はしない、というのではなく、そもそも彼等は全然来たくないのである。)なぜ魅力がなかったか?具体的には、次のような原因があるだろう。

1 暑さ寒さが厳しく、堪え難かったから。
2 部室が遠すぎて、家が遠いメンバにとっては来るのが難しかったから。
3 絵や音楽を専攻している者(特に鴨川メンバ)が来ても、誰かのプログラムの手伝い以上の目標を与えることができなかった。そのため、絵や音楽を使うプログラムの企画がなくなってしまうと、何もすることがなくなった。
4 (特にプログラム系で)「何でもできる」ことを売りにしていたが、それは「何をしたらいいか分からない」ということにつながってしまった。することの方向についてなんらかの指導を行うべきところが、ただの「放置」になってしまい、結局一回生は部室に来ても何もすることがなく、いても相手にされないため、自然と来なくなってしまった。
5 毎週決まった日に集まることに決めたのはいいが、せっかく来ても部室が開いていないことが多かった。また、会議をするということでメンバを集めても、集めた本人が来ないということもあった。このような不誠実な行いが重なっては、普通の人間なら馬鹿正直に顔を出すのが空しくなって当然である。(私は「マイクロマウス研究会」というのを作って分離しようと思っていたが、部室の豊富なパーツや工具、過去の資料といったものを失うのが惜しかったのでやめた。パソコンしか使わない人たちは失うものが少なかったので、出ていきやすかったのだろう。)
6 部長が嫌いだから。

 今回部室が白川から洛北に移動し、1の問題は解決した。2については、洛北の生徒については解決した。5は部長の資質の問題であり、矯正するなり首をすげ替えるなりすることは可能である。また、学校が開いている時間なら、学校側から部室に入ることができるようになったため、少なくとも雨の野外で立ち尽くすということはなくなった。6の理由(ある意味で人の行動原理の根源に触れているような気がするが)で来なくなった人、これは部長が11月までやる気満々な以上、どうしようもない。
 今後の部の方針に関わるのは3と4の部分である。

 私の考えではこうである。CINCSははっきりと洛北中心で組織を立て直すべきだ。駅前や鴨川から来たいという人がいるなら、それは歓迎する。しかし、他の地区から洛北にしょっちゅう顔を出すのは難しいし、めったに顔を出さない人間が要職を勤めることはできない。ならば、洛北の、今よく来ている信頼できるメンバで組織を固めてしまうしかないだろう。
 今何ができて何ができないかをはっきりさせなければならない。例えば、絵や音楽について指導することができないなら、そのことは断っておくべきだ。「何でもできる」などという言葉は、何も言っていないのと同じである。各自の得意分野を明らかにしておき、初学者に対して適切な指導を行えるようにしておく必要があるだろう。
 このようにして、CINCSのアイデンティティをしっかりと確立した上で、はじめて「他分野との交流」だの「他分野への挑戦」といったことを言う資格がある。ここが何のクラブかもはっきりとは言えないというのに、分野も糞もあるものか。(ナショナルなものを軽視していたづらにインターナショナルなものに引かれる連中・・・例えば、日本のこともよく知らないくせにアメリカにかぶれて「だから日本は駄目だ」といいつつアメリカに住むわけでもない、結局日本人にもアメリカ人にも馬鹿にされる中途半端な連中・・・がいる。真にナショナルなものこそインターナショナルになる資格があることを知るべきだ。)
 そして、「今できること/できないこと」を伝えようと思ったら、部員がしている具体的な活動状況(できれば成果物も)を見せるしかない。また、それが一番早い。人は目に見えることしか信用しないし、そのことを非難しても仕方がない。「えーと、部ではゲームを作ったり、ロボットを作ったりなんかしてます」「で、どんな?」「・・・」では話にならないのである。詳しい記述は、ホームページ上に載せるのがいいだろう。
 そして、ポスター(もし作るのならだが)には最低次のことを載せる必要があるだろう。
・クラブの名前
・部室の場所(地図・洛北校への行きかたも含めて)
・責任者の名前と連絡先(メールアドレス・電話)
・活動している時間(「だいたい授業の後」「夜遅くや朝早くも可能」)
・ホームページのURL(「詳しい活動内容についてはこちらをどうぞ」「student webから飛べます」)
・簡単な活動内容
・部費がいくらか
 イベントなどに関しては、あまり「あれもこれも」列挙すると、やらなかった時に裏切られたように感じてよくないので、あくまで「・・・等を考えています」程度の表現に押さえる方が無難だろう。

 あらかた作業が終わったので、前から作りかけていたマイクロマウス2000レポートhtml版の作成続きと、クラブのホームページの改編作業にかかった。午前0時頃先生たちとピザの出前をとった。朝の3時頃完了した。
3/22(木) 誰も来なかった。B教室からPCを3台借りられることになったので、部室に移動した。ケーブルが通じたので、部室でインターネットや学校のLANに接続できるようになった。
3/21(水) 駅前校で履修登録。久しぶりにいろんな面々と会い懐かしかった。駅前校から引き出しをもらう手はずをとってから、下宿に行く。田中渕野の二人が来て弁当を食っていった。ジャンクパーツの整理。
3/20(火) 休みの日だが、部室に行く。何もする気がしない。エンべデッドシステムの問題をやっていたが、進まない。夕方渕野氏が来たので下宿につれていきマッコリを飲む。この日は結局酒を飲んで寝ただけだった。
3/19(月) 昼過ぎに学校へ。部室整備の続き。田中・渕野。田中氏のおかげで夜の10時半頃には大体片付いた。
3/18(日) 尼崎にマッコリ・真露・唐辛子を買いに行く。今回は新しい試みとしてポッサムキムチと「百歳酒」というものを買ってみた(高かった)。キムチはイカやカキや栗や松の実やダイコンなどがたくさん入っていて、大変うまかった。これは当たりである。「百歳酒」だが、これは人参(高麗人参)の味がきつくてあまりうまいと思わなかった。「健康によさそうな味」である。なんで向こうの人は何にでも人参を入れたがるのかわからない。
 これらの荷物が大変重かったので、抵抗などのパーツは買いにいけなかった。
3/17(土) なんとなくファイナルファンタジー6をしたりして遊んでいた。考えてみれば去年の今頃、会社をやめて第二種の勉強をしながらファイナルファンタジー5をやってたんだった。ぜんぜんやってることが変わらない。40ぐらいになっても同じことをしているような気がする。
3/16(金) 卒業式のため学校に入れないので、実家に帰った。実家にはいろいろ面白いものがたくさんあって良い。下宿には(わざと)ゲームもパソコンもテレビもラジカセも勉強以外の本も置いていないからだ。
3/15(木) 新部室整理の続き。ネジ・抵抗などの分類。
3/14(水) マイクロマウス続き。CPU部ほぼできる(拡張部分はまだ。8255を使わないで、VHDLを使ってICを作るところからやろうと思っている。しかし、よくわからないので、とりあえず普通のICで作ってみたい)。モータ部にかかる。今回はSLA7020を使うので、勝手が違う。途中で部品がなくて作業の続けようがなくなる。買いに行かないといけない。
 ニンジャ好きなカナダ人からまたメールが来ていた。今23歳のトロントの大学生(男)だそうだ。9歳の時初めてニンジャ映画を見て、それから10年間忘れていたんだが、19歳の時にニンジャ映画の魅力を再発見したという。画像のキャプチャーをしているホームページはあなたのページしかないので、非常に参考になります、とほめられた。この手のものの本場はアメリカだと思っていたので意外だ。日本でニンジャ映画のビデオを買うと7、8000円はするということを教えると驚いていた。あちらでは10ドル〜15ドル(1400円〜2000円ぐらい)が相場なんだと。
3/13(火) マイクロマウス続き。
3/12(月) 新部室で作業(サーバ修理等)。1回生ばかりだった。
3/11(日) 天満の正道会館裏の「天満研修センター」というビルで、アイテックの「ソフトウエア開発技術者」模擬試験を受ける。9時から4時半まであった。とても疲れた。第一種相当とかいう話だが、午後の試験が午後1と午後2の二つになったので、もともとよりしんどくなったんじゃないかと思う。しかしネットワークよりはずいぶんましだった。くしゃみが止まらなくて難渋した。
 同じビルの中で俳優養成学校が子役の訓練もしているらしく、派手な子供がいっぱいいた。情報処理試験の人たちがみんな灰色っぽい人たちだったのと対照的だった。
3/10(土) とても寒い。朝「沖縄そば」というインスタントラーメンを食う。麺が太い以外普通のラーメンとたいしてかわらなかった。神戸に戻る。バスの中で西庄君と会った。パソコン工房で働いているそうだ。帰ったら成績表と履修登録の用紙が届いていた。英語の必要単位数が少なくなっていた。また、駅前の授業はさらに取りにくくなっていた。俺は免除されてるからいいけど、一般教養の単位が必要な人は大変だな。すでにほとんどの時間が必修で埋まっているから、何も考えることはない。
 1週間の実験により、米中心の食生活を送ったら大体1日5合食べることがわかった。これは宮沢賢治のポエムに書いてあることと一致する。「一日五合ノ飯ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」
3/9(金) 朝おきたら雪が15cmほど積もっていてびっくりした。麦100%2合(2人で)と納豆。引っ越し作業続き。作業前に雪かきをしなければならなかった。昼までに旧部室は空になる。例の気持ちの悪い人形をフチノ君に投げると本気で逃げた。昼はパンを食う。午後から新部室での作業。田中フチノ西庄といった新メンバーのおかげでよく進んだ。夕方学校をやめたメンバーが見にくるという珍しいイベントもあった。
 帰ってからくいかけのパンを新部室に忘れたことに気付くが、後で行ったらもう学校がしまっていた。夕米3合とインスタント味噌汁、ふりかけ。
3/8(木) 4時半に目がさめてしまう。朝かき揚げと飯1合とカップラーメン。胃がもたれる。9時から部室引っ越し作業。生徒が全然集まらず大変だったが、先生や職員の方々の協力もあって思ったより進んだ。昼は喫茶白川でミックスフライ定食大盛り。夕方雪が降り出す。学校に戻ってから、Linux研究。田中君から中国の人形ロボット「先行者」を紹介される。


"先行者"

 2足歩行できる上に、簡単な言語機能があるんだそうだ。人民日報中文版を見ると、日文版よりも大袈裟なことがいっぱい書いてあった。中文版によると、こいつは人々の前で声を出して自己紹介をしたんだそうである。去年の11月末に発表されたらしいが、どうしてこんなすごいことが日本で話題にならなかったのか不思議だ。中国や台湾やアメリカのサイトでこいつのことを検索したが、新聞と同じことしか書いていなかったのが残念。
 夜外に出ると吹雪だった。渕野君が部屋に泊まっていく。夕飯3合(二人で)とレトルト「どて焼き」缶詰「きじ」。「きじ」は「鹿」と同様、期待したほどうまくなかった。
3/7(水) 朝飯1.5合と納豆。学校でマイクロマウス製作。センサを相当狭いところに詰め込むことができたので、基板1枚に全部入れられそう。昼パン。夕かき揚げと飯1.5合。
3/6(火) 朝、田口らとカナートに歩いて行きビッグマック(1つ200円)など食う。青柳からカメラマン稼業についていろいろ聞く。昼ごろ別れて学校でLinux研究。夕カップラーメンと飯1合。
3/5(月) 朝飯1合と納豆。学校でニンジャページ更新(英語版の添削結果がカナダの人から来ていたので)。マウス。夕方三条に行って青柳・田口・石川と蟹を食いに行く。2万円ほどになったが、田口が1万円のただ券をインターネットで当てたのがあったので、そんなに出さずにすんだ。他に客が一人もいなかったのだが、あの店の経営は大丈夫なのだろうか?その後白川の竜串に行き、田口邸に泊まる。
3/4(日) Running Linux読み終わる。朝飯1合とインスタント味噌汁、昼飯2合とかき揚げ(スーパーで購入)、夕飯2合とタイのカレーの缶詰。具を入れないとまずかった。
3/3(土) 車で引っ越し作業。窓が汚かった。洛北カナート・イズミヤ・ジャンプなどに食事および買い物にいく。
 夕飯は麦飯2合と納豆。
3/2(金) 学校でマイクロマウス製作。CPU大体できる。荷物を持ってくるため神戸にもどる。
3/1(木) 銀行に振り込みにいく。書類を持って下宿にいく。成瀬の部屋に寝袋を取りにいく。旧部室に荷物を取りにいく。下宿に初めて泊まる。寝袋だけだとさすがに寒かったが、電気敷き毛布があったので少しましだった。